9ヶ月経って、やっと書ける、父の最期。
現在は点滴とサンドスタチン(消化器症状の改善のためのお薬)の投与、痛み止めの麻薬のテープ、在宅酸素療法のみの父。好きなことは、食べること、音楽を聞くこと、出かけること。
・・・と、ここまで書いて今年の3月から下書きのままになっていたブログ記事。
亡くなる5日前の父の写真をこのままお蔵入りさせるのも嫌だなと思いつつ、いろんな感情が噴き出して、ブログを書けない日もありました。(仕事や他のことで忙しかったのもあるけれど)
1年前は術後癒着性イレウスで入院していた父。
父も私と同じで(いや、私が父と同じで)食べることが好きでした。
最期の10日ほどを自宅で過ごしているとき、「たもりたい(食べたい)」と言う父を目の前に、「食べてほしい!」という願いと「食べていいの?」という疑問が頭の中でごちゃまぜになっていました。
食べたくても、最期は本当にスプーンでひとすくいだけのうどんのスープ、ひとすくいだけのジュース、ひとすくいだけのヨーグルト等々。
最後に届けたお土産のボンタンは口に入らずじまいでした。
ボンタンを届けた翌日。
出かけているときに「お父さんがもう厳しいがよ。ひろくん(弟)は「今日は仕事が休めない。もう会えないかもしれないけど、行ってくる」と覚悟をして仕事に行ったのよ。お母さんはひとりじゃ怖いがよ。来てくれないけ?」と母から電話がありました。
車を1時間ちょっと走らせて実家に行くと、反応は特になく、宙を見つめて、呼吸をしている父がいました。
無呼吸の時間が次第に長くなりました。「お母さんは洗濯物を取り込んでくるからよろしくね!」と母がいなくなったときに、「お父さん、本当にありがとうね」と伝えることができました。
いよいよ呼吸の間があきすぎて・・・と思ったのと、お手洗いに行きたかったのとで、「お母さん、ちょっときてー」と母を呼び、母が「はーい、てっちゃん(父)、きましたよ~」と声をかけるのを見届けてお手洗いに入りました。
そしたら、「ちーちゃん、息がとまってるかも!!!!!きて。きて。きて。」と母の声。
母と手を握ったまま、3月10日に父は亡くなりました。
弟に電話をして、夫に電話をして、訪問看護師さんに電話をしてお医者さんに来ていただいて、親戚に電話をして、葬儀社に電話をして。バタバタと数日が過ぎました。
「やっと、夜ちゃんと眠れる」そう思ってしまった自分に嫌気がさしたり、かと思えば機械的に事務作業をこなしたり、感情が爆発したり。周りで支えてくださる方々がいたからこそ、表面上はかろうじてうまくやれていたのではないかと思います。
話は変わって。
少し前にACP(アドバンス・ケア・プランニング)のポスターが炎上しましたよね。私は「炎上させて周知徹底したかったのか」と率直に思いました。不安感をあおって、過激な表現をする、果たしてそれでACP本来の意味が伝わるのか?とも。
2003年にクモ膜下脳内出血で父が倒れたときから、2017年に父が癌になってからも、父も含め家族や医療・ケア関係の方と何度も何度も話をしてきました。ACPは本人のためはもちろん、家族のためにも大切だと実感しています。
「あぁ、炎上したやつ?」で終わることなく、ACPが広がり、定着するといいな!と希望を持って、この暗い暗いブログを終わります。(食べ物ブログをお待ちの方、近日中には書きます!)
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